ひとのいのち
2013.7.28
先日、県外から研修生が来ました。画像はそのときの草取りの様子です。大きい草は「オモダカ」といって有機栽培の難敵です。これを除去する為にみんなで一斉に田んぼに入りました。午前中でも取りきれなかったので、午後も延長して草をとっていました。その時、研修生が具合が悪くなってしまったので休んでもらう事にしました。最初から「あまり今は体力が無い」と言われていたのですが、一日外仕事はきつかったようです。そしてその日は休んでもらい、次の日になりましたが、なかなか体調が戻りません。聞いてみたら化学物質が入っているものを食べれない症状で、ご飯を食べれる量もだんだん少なくなり、6月頃はもうダメかと思う事もあったらしいです。
私は「なぜそんな体調で農作業をしにきたの?」と言いかけましたが、その瞬間気づかされました。そのような体調なのに、きてもらったのは食が命に直結している事を見せる為ではないか?と。
そのような体調で研修にくるということは、並大抵のことではありません。彼も自分の体調は良く分かっています。しかし、「今」来たというのは、
そうまでして「生きる為の農業」がしたかったのではないでしょうか?
彼にとって「安全なものを食べる」という事は、「生きる」という事に直結していて、逃げることができません。私は、何でも食べれます。彼のように命がかかっているわけではありません。だからこそ彼を見ると安全な食べ物を作ることはまさに「命に直結している」のだと身につまされます。
彼は帰りの車の中で、
「田んぼに入っていると本当に気持ちよかった、こういう仕事ができたら本当にいいですね、私は今こんな体調になったけど、昔よりよっぽど今の方が幸せです」
と言い、そして「有機栽培をしたい人はお金じゃあないんだと思います」とも言いました。
確かに研修にきてもらう方の中には、多くの給料をもらっている方もいます。それなのに、田舎で農業を仕事にしたいと思うのは、生きる為に本当に必要な、最低限の事が人間に不足していると感じたからではないでしょうか。
それは、人間が何万年もやってきた「自然との営み」だと思います。
最後に彼は言いました「私は、安全な食べ物を作って、それを少しだけ食べていけば、生きていけます。ただそれだけでいいです」
効率が良いか、利益が出るか、など今日本の農業は岐路に立たされています。各地で大規模化が進み。植物工場が建設されています。大規模化が悪いわけではありませんが、利益を出して運営しなければ継続できなくなってきています。これに歯止めはかけられませんが、そんな中でも、彼の言った言葉を、彼の存在を、忘れないように生きて行きたいと思いました。このような出会い、そして重い体で来てくれた彼に感謝致します。